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私は別にそれがどんなものかは聞きはしなかった。彼女の言葉に同感の意を表して、やはり自分のあれは本当なんだなと思ったのである。ときどき私はその「牢門」から溪へ出て見ることがあった。轟々たる瀬のたぎりは白蛇の尾を引いて川下の闇へ消えていた。向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本椋むくの樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見えるのであった。
練吉が元の座へ帰つてゆくと、房一はぽつんと一人とり残された。来客達の大半とはすでに顔見知りだつたにかゝはらず、今夜の席では房一は唯一の新顔だつた。
と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
市造は医者だと知つてすぐに起きなほつた。そして、房一が折鞄の中からまだ真新しい聴診器をとり出すのをたゞ無意味に眺めていた。誰に似たのか、市造は恐しく輪郭の整つた顔立ちだつた。あまりきつちりしているのでどこか寸がつまつて見え、硬い大人の面をかぶつた子供といふちぐはぐな感じにも見えた。たゞ、眼だけは紛れもない父親ゆづりの黒味のひろがつたあれだつた。
そこへ降りた時から徳次はもう帯をほどきはじめて、肩にかけただけの衣物を着茣蓙きござのやうにはたつかせながら、誰憚ることもなしに大股で歩いた。日にぬくめられた石ころからは、生暖い、乾いた空気が立ち上つて、足から胸へつたはつて行き、それから思ひがけないときに頬のあたりにぱつと快く触つた。前方には河水のきらめきがあつた。その向ふには草に蔽れた崖地があり、その稍やゝ高味を路が走つていた。そこは滅多に人が通らないところである。たゞ日に一二回、徳次にとつては商売仇である荷馬車の列が、ゆるい、だるい車の音をたてながら、馬は眠たげに首を前に垂れながら、そして挽子ひきこは手綱をどこへ抱へこんだのかと思はせるやうに腕組みをしながら、その崖上の路を地勢に沿つてひよいと見えなくなつたり、又現れたりしながら通つて行くのである。たまに自転車が通つた。それは音がしない。それから何の行商人か、箱を背負つて、紺の脚絆をはいた足をかはりばんこに前に出して歩くのを、こつちから見ると、何てまあ面倒くさいことをして歩くんだらう、あんな風にして一体どこまで行く気なんだらう、と思はせたりした。それも、わざわざ気をつけてでもいないかぎりは耳にも入らないし、目にも入つて来ない。在るものはただ、ゆるい野放図な空気、どんなに踏んぞりかへつても喚いても、たゞすつぽりと包んでくれ、身軽るにさせてくれる空気だけだつた。
「いやあ、全く」
「あ、お帰んなさい」
「さうだ。大したことはない」
「お礼ですか」
「ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね」
房一が云ふと、喜作は突然びつくりするほど大きな口を開けて笑つた。
房一はその晩留置されることを覚悟していたが、幸ひに取調べは簡単に済んで、夜ふけになつて神原喜作と共に自動車で帰つて来た。この二人が本署まで同行させられたことはあらゆる方面に同情をひき起した。そして翌日になると、出張所の側でも遺憾の意を表し事件は落着した。
朝早くから徳次が探し歩いてくれたので、房一には追鮎の素晴しいのが手に入つた。浅瀬につけた追鮎箱の中で、肥つた生きのいゝそいつは青黒い美しい背をたえまなく左右に動かしながら、きれいな水に洗はれて、たとへやうもなく靱しなやかに強く見えた。鼻先に短い針を通して糸につけて放すと、そいつはいきなり激しい力をもつて水の深みに走つて行つた。